「カオスモス5 一粒の砂に世界を見るように」展

佐倉市美術館で開催している『カオスモス5 一粒の砂に世界を見るように』展。(3月28日火曜日まで)

展覧会のタイトルの「一粒の砂に世界を見るように」というのはウィリアム・ブレイクの『無垢の予兆 Auguries of Innocence』という詩の冒頭部分から引用されたものです(『対訳 ブレイク詩集』岩波文庫より)

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour

一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時(ひととき)のうちに永遠を握る
(訳:松島正一)

何しろブレイクの「予兆」ですから、穏やかに見える導入の後は、幻視的かつ幻想的な—それがまさに「現実」の世界なのですが—「激しさ」が熱く連ねられていきます。

「カオスモス」。「カオス(混沌)」と「コスモス(宇宙、秩序)」からなる造語によって、企画者がこの展覧会のシリーズに込めた思いは、「世界」に対峙する私たちの眼差しについて言及されるそれであり、小さなもの、些細なものから覗きみる私たちの現実の社会、その世界に対する視線(眼差し)を美術に問うものだと考えることができます。

展覧会は二つのフロアで構成されていて、その冒頭部分は井川淳子さんの写真と高瀬智淳さんの極小のドローイング(および絵画)が展示されています。アプローチの方法は違いますが、どちらも集積された時間の層と経過した時間の気配が刻印された作品だと思います。

井川さんは今回いくつかのシリーズを出品していますが、初めに置かれた《ここよ、今、いつでも》のタイトルは、T.S.エリオットの『四つの四重奏曲』(大修館書店刊)の「バーント・ノートン」の最後の段落から引用されたものです。

Sudden in a shaft of sunlight
Even while the dust moves
There rises the hidden laughter
Of children in the foliage
Quick now, here, now, always—
Ridiculous the waste sad time
Stretching before and after.

一条の日光の中に
ほこりが動いている時でさえ、
思いがけなく、葉かげで子供たちが
声をころして笑う声。
「さあ早く、ここよ、今よ、いつもよ—」
むだに過ごした悲しい「時」の、
長々と前後に延びた愚かしさ
(訳:森本康夫)

「そうなっていたかもしれない」ことも「そうなっている」ことも所詮は同じことで、いつもそこにある と僕(エリオット)はバラ園で語り始めます。

「さあ早く、ここよ、今よ、いつもよ—」 Quick now, here, now, always— は、「小鳥」の声なのですがこの僕の「言葉」のこだまなのかもしれません。いつも、そこに、ある。

 

さて、もういちどブレイクの『無垢の予兆』に戻ります。最後から2段落目です(これは先の岩波文庫版には未掲載、『アフォリズムの効用 : ブレイク『無垢の予兆』を読む』より)

We are led to believe a lie
When we see not thro’ the eye,
Which was born in a night to perish in a night,
When the soul slept in beams of light.

我々は嘘を信じる気にさせられる
我々が目を通して見ない時は
その目は一夜で滅びるように一夜で生み落とされた
魂が光の矢の中にいて眠っていた時に。
(訳:松島正一)

自分の目を通して見ること。これは私たちが「いつも、そこに、ある」今という時代を見つめる鍵になる最も大切なことだろうと思います。

井川淳子《ここよ、今、いつでも》2003年/ゼラチンシルバープリント/406×508mm

以下、井川さんご本人のによる作品についてのQ&Aを引用します。

Q: 作品について教えてください。
A: 《ここよ、今、いつでも》について
題名はT.S.エリオットの「四つの四重奏曲」に登場するつぐみやこども達の声、《Quick now,here,now,alwaysー》からきています。「早くきて。過去の大切なひとこまが、今、ここに見えている」という呼び声ですが、私にはロラン・バルトが言う写真の本質《それは=かつて=あった》に応える声にも聞こえます。陰影に惑わされることなく、存在そのものを捉えたいと辿り着いたのが、すべてを呑み込む金属と闇でした。暗室で焼く黒い写真。黒の僅かな違いは、もはや視覚と呼べるのかどうか分からないところで感受しています。縫い針の頭は微かに光を反射していますが、光の中心には小さな穴も空いていて、暗闇が覗いています。空っぽに見える盃は、実は縁ぎりぎりまで満たされています。黒が内側と外側を満たす時、円環は現れます。写真に写っているのは、かつてあったものの姿そのままですが、時空を隔てて初めて見えてくるものがある。このような事物のありさまは大変示唆に富んでいますが、撮影した私も最初からすべてが分かっている訳ではありません。最初にあるのは予感だけで、むしろ後から、時には何年も経ってから、見過ごしていた姿にようやく気づくことの方が多いのです。

『四つの四重奏曲』「リトル・ギディング」の最終段落より

We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.
Through the unknown, unremembered gate
When the last of earth left to discover
Is that which was the beginning;
At the source of the longest river
The voice of the hidden waterfall
And the children in the apple-tree
Not known, because not looked for
But heard, half-heard, in the stillness
Between two waves of the sea.
Quick now, here, now, always-
A condition of complete simplicity
(Costing not less than everything)
And all shall be well and
All manner of thing shall be well
When the tongues of flames are in-folded
Into the crowned knot of fire
And the fire and the rose are one.

われわれは探求をやめない
そしてすべての探求を終わったとき
もとの出発点に到着し その場所を初めて知る。
知らない、憶えている門を入る
するとこの最後まで残っていた未発見の地は
最初の出発点。
どんなに長い河でもその源には
隠れた滝の声
また、りんごの木に隠れて子供たち。
捜さないから知らずにいるが
聞こえて来る、かすかに聞こえて来る
海の波間の静止した所に。
さあ早く、ここよ、今よ、ずっとよ-
(一切を犠牲にして到達する)
一つの完全に単純な状態
よろずのものやがて全きを得む
よろずのたぐいやがて全きを得む
そのとき炎の舌はことごとく抱き寄せられ
あい結ばれて火の王冠となり
かくて火とバラは一つになる。

 


カオスモス5 一粒の砂に世界を見るように』は井川淳子、クリスティアーネ・レーア、満田晴穂、キューライス、高瀬智淳、5人による展覧会。

(文:中根秀夫)

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