用語集

「海のプロセス」アトラス 用語集
Atlas for “Process of the Sea”

更新 4/14/2017

私たち4人のメンバーが日々話してきたこと。メモ。


アトラス:ギリシャ神話による。ゼウスとの戦いに敗れたアトラス(アトラース)は世界の西の果てで天空を背負うという苦役を強いられた。地図帳をアトラスというのは、16世紀の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが地図帳の表紙にこのアトラースを描いたことに由来する。建築では男性の彫刻を柱として用いたものもアトラスという。[H.N.]


海のプロセス(うみのぷろせす):海辺で拾い集めたガラス片をボトルの形に組み立てた作品。ガラス片は長い時をかけ繰り返し打ち寄せる波や風によって削られ、または陽に晒されて淡い色合いになり、ある種の砂糖菓子のような感触をしている。それはペットボトルが主流である現在とは違い、ガラスのボトルが全盛であった時代の記憶を想起させノスタルジーを誘うが、実際は最近浜に捨てられたボトルの一部もあるかもしれない。ガラス片は出自を示すかのように個々の曲面と、かつて鋭利だった柔らかい切片を残し、それらを頼りにボトルの内と外に行き交う光や通り抜けていく空気を感じながら積み上げていく。そして隙間を抱えたボトルは崩壊と再生の可能性を孕みながら立つ。[S.H.]


(かがみ):鏡、あるいはこの底なしの深さのなさ。それが鏡の中に入ることをひとに夢みさせるのだ。そして鏡の中で、ひとは無限に表面にいる。われわれはそこでは決して奥にまで達することはできない。宮川淳「ジル・ドゥルーズの余白に」

しかしまた、それは鏡の底、鉛のような暗い物質の存在と、あなたの顔を映し出す明るい表面とのなんと見事なイマージュでもあることだろう。すべてを映し出す明るい鏡面の輝き、しかし、それを支えるのはこの暗い不可能性であるとは。宮川淳「鏡について******」[H.N.]

カメラ・ルシーダ:お借りしたカメラ・ルシーダ、やっと今日取り出してみました。小さなレンズを覗くと反射した像が手元の紙と二重写しになる。前に見た時と同じ、やはり天地逆転したまま見えていますが、見ているものが平面ならひっくり返すのは簡単。画集の一頁、クレーの天使を卓上に逆さまに置いて見ています。寝かせた紙の上の天使はパースがつき、既にまるきり違う姿になっていますが。

宙に浮いた像をなぞり始めた途端、なぞるペン先と線が視界を乱し、形がずれ始める。乱れた視界を補正しようと頭を動かすとペン先がふっと消えてしまう。扱いに慣れていないだけかも知れませんが、なぞる行為そのものが「見ること」と「なぞる」ことの邪魔をする。触れようとすれば見失う。触れれば壊してしまう。宙に浮く天使を追いかけながら、以前映画で見た長いモノローグを思い出していました。所有することと穢すことが堂々巡りするモノローグ。結局、なぞっては消し、なぞっては消しを繰り返し、白い紙に戻りました。[J.I.]


(きず):美には傷以外の起源はない。それは個人的なものだが、各々にとって異なり、見えないことも見えることもあり、それは誰もが自らの内に抱え、携え、そしてこの世界から離れて一時的であれ深い孤独へと向かう時に、そこに退避する。ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』[H.N.]


白い日(しろいひ):アルセーニー・タルコフスキー(訳:坂庭 淳史) 映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932~1886)の自伝的作品『鏡』(1975年製作)は、その脚本段階では、アンドレイの父アルセーニー・タルコフスキーの『白い日』という詩のタイトルが付いていたという。[H.N.]

ジャスミンの根元に石がある。
その石の下に宝がある、
父が小径に立っている。
白い、白い日。
(中略)
そこには戻れない、
語ることさえできない、
どれだけ幸福に満ちていたろう、
この天国のような庭は。


天使(てんし):ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』では、永遠を生き、人々の言葉を集め、歴史を記述し続けるのが天使の仕事だ。天使には個人的な「時間」や「感覚」の概念はなく、見えるのは色彩が無いモノクロームの世界である。天使ダミエルは壁の街ベルリンで、天使の羽根を纏った空中ブランコ乗りのマリオンに一目惚れし、霊として自らの存在を放棄する。[H.N.]


バベル:私には言葉がない。「それ」を語る言葉がない。

よし、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を混乱させ、彼らの言葉がたがいに通じないようにしよう旧約聖書 創世記

バベルについて何か語ろうとした私は、すでに言葉を失っていた。失ったのか、そもそも言葉があったのかさえ分からない。もどかしさにじりじりしていると、目の端に走り去る影がちらっと見えた。今だ、影でもよいから写しとっておこう。けれどもたちまち混乱して、何をどうすればよいのかが分からない。

バベルはブリューゲルの「バベルの塔」のコピーで出来ている。大量のコピーを積み重ね、撮影が終われば回収し、また初めから積み直す。旧約聖書のバベルの塔は、傲慢になった人間が天にも届く塔を建てようとする話だが、思えば私も塔を積み重ねている。始まりは一冊の本だった。折り込み頁を広げるとバベルの塔が流れ出た。頁は増え続け、本は形を失い、あちこちに塔が建ち、王も至る所に現れた。単一の繰り返しの末に現れたものを目にして、ぎょっとする。バベルの塔にこんな光景が潜んでいようとは思いもしなかった。カメラに収め、写真に焼く。そうしてバベルは増えていく。[J.I.]

バルト, ロラン:参考文献『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳 みすず書房、1985年 バルトは、最後の著書となった『カメラ・ルシーダ』(邦訳では『明るい部屋』)が出版されたことをその目で確認するかのようにして、程なく交通事故により64年の生涯を終える(1980年3月)。よく知られるように、『明るい部屋』は類い稀な写真論でもあり、母アンリエット(77年10月に亡くなった)への思いが色濃く滲むエクリチュールでもある。写真を語るバルトは「写真を眺めるもの」である自分という立場から、写真の本質にたどり着くべくその過程を仔細に検証する。見るもの/見られるものの関係が入れ子状になる写真の、対象に向かう撮影者の「視線の制度」を宙吊りにするため、「写真を眺めるもの」として、すでにひとつの対象(見られるもの)と化した写真に視線を注ぐ。バルトは被写体、つまり「写真を眺めるもの」の意識が向かう対象(ノエマ)のことを、≪それは=かつて=あった≫という言葉で規定している。そこでは、過去の一点に於いて≪それ≫がカメラの前に置かれていた、という事実のみが対象としての写真を存在させることになる。(『カメラルシーダ』展のテキストより) [H.N.]


ベンヤミン, ヴァルター:参考文献「1900年頃のベルリンの幼年時代」『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1997年に収録。冬の午後に窓から差し込む光が白い壁に移ろうような文章だ。だがその美しさは、「故郷/幼年時代」に対する「憧憬」の感情を、「社会的な回復不可能性にまなざしを向けること」によって意識的に排除することでこそ生まれるのだ。ベンヤミンがドイツロマン派から研究を始めたことを思い出さねばならない。ヒットラー政権が樹立する1933年、ユダヤ人であるベンヤミンは、もう帰ることがないだろうという予感とともに故郷ベルリンからパリへの亡命を決意する。そして1940年パリが陥落し、スペインへの逃亡中に服毒自殺をする。「子ども/幼年時代」は逃走線なのだ。逃避ではなく。「子ども−になること」。[H.N.]


わすれなぐさウィルヘルム・アレント(上田 敏 訳) 上田敏(1874〜1916)による訳詩集『海潮音』(1905年出版)に収められたこの小さな美しい一片の詩は、ドイツ初期自然主義派の抒情詩人ウィルヘルム・アレント(Wilhelm Arent /1864~1913)による。アレントは、今では本国ドイツに於てほとんど忘れられた詩人であり、それゆえに『わすれなぐさ』は、上田によるこの訳詩集の中にのみ生き続けている、流れの岸の一本(ひともと)の花でもある。[H.N.]

ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。