磨き抜かれたモノクローム写真が黒い木製フレームで展示されるとき、スティルのアナログ写真に井川淳子が授けた重厚さと強度に打たれる。波打ち際で泡立つ波の反射光を硬質に彫り上げた《すべての昼は夜》。この呪文のようなタイトルの作品がすべての影が光になる写真の魔法を告げている。ブリューゲルの油彩画《バベルの塔》が大量の紙片に複製され、折り重なってくずれるさまをスケール大きく見せる《バベル》連作。展覧会宣伝物のメインビジュアルになった井川の《バベル》は、天まで届こうと塔を建造するうちに、人間が互いに言葉が通じなくなってしまう、旧約聖書の記述に由来している。井川淳子は、はかないものの反復を写し出すシリーズ作品を並べながら、彼女の写真のなかで、はかなさと強靭さが表裏となって反転する。
1点しかない油彩画《バベルの塔》が大量の紙片上に複製されて重なる、井川のフェイクのイメージと少し距離を置いて、福田尚代の《エンドロール》は古いガラスケースに収められた。
木製枠のガラスごしに深く折り重なる和紙の束を見ると、筆と墨で書かれた読めない文字がぎっしりと詰まっているのがわかる。濃く書き重ねられ、重く黒い一枚、画数が少なめの字が覆う一枚、どれも細かな字が行間なく記されみっしりと時間を吸ってある。福田は自作にコメントを添えて、記したのは死者の残した大量の言葉の写しだという。亡き人の存在を言葉の総量と受けとめて、福田は鎮魂に沈潜した。文字で埋まった和紙の重なりは、木製ガラスケースの柩のなかに保管される。
福田作品の位置から見直すと、井川の《バベル》は言葉が通じ合っていた古の時代への追悼だと思え、平田の《海のプロセス》のガラス片たちは海の骨片に見えてくる。中根の映像から発される喪失と再生への詩語をガラス越しに受けて、《エンドロール》は繰り返し、言葉と人について語り返す。
2017年
みつだ ゆり 美術評論